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松崎の歴史 (提供:松崎町松本様より)
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歴史は共有物
1歴史は「町再生」の起爆剤
山岡鉄舟は松崎に来ていた!?@
突然、思わぬ電話が飛び込む。「山岡鉄舟は本当に松崎に来ているのですか?」。私は「……」と、しばらく無言のままである。すると相手は「伊那下神社に長八と共に参詣し、あの漆喰の扁額を製作したと書いてあります」と。
電話を切ってから先輩・関賢助氏のつくられた「長八年表」を眺める。確かに鉄舟が松崎に来られた記録はない。
◎明治10年(1877)63歳 内国勧業博覧会「富嶽」出品。山岡鉄舟と三島市龍沢寺の禅席で知り合う。
◎明治11年(1878)64歳 三島市龍沢寺に「不動明王」「二童子の像」隠寮の諸作品を制作。星定老師より居士号を受ける。この後、天祐居士と記す。清水次郎長と知り合い「山岡鉄舟像」を贈る。「水月観音」龍沢寺「天孫降臨」制作。
◎明治13年(1880)66歳 松崎町 岩科学校「千羽鶴」「美人賞蓮の図」「山水図」、春城院「弁財天」「大黒天」「毘沙門天」などと素焼きの焙烙に「静御前」制作。
これを見てわが記憶の正しさを確かめ、まだ認知症にかかっていないことにほっとする。
だが、「書いてあります」と聞いて、確かめないわけにはいかない。早速、宮司にメールを差し上げる。しかし、回答がないので買い物のついでに伊那下神社へ行く。だが、宮司は留守で、鍵のかかっていない社務所に入らせていただく。
確かに扁額の下の説明文に「明治13年、参詣の折、両人とも当地に滞在し、この扁額を製作した。鉄舟は稲穂を束ね気合いをこめて大胆かつ豪快に書したものに、長八は漆喰に艶を出し、大理石風に仕上げた」とある。
この説明文は、最近張り替えたもののようである。私はたびたびここには訪れているので、これに気づかぬはずはないのである。
実は、電話の相手は隣町に住む教師で、新聞に「鉄舟の足跡を訊ねよう」との記事を見ての反応である。有難いことである。もしこのまま放置していたら、「鉄舟は松崎には訪れない」ということに確定される。
松崎町には、この扁額のほか鉄舟の書が3つある。岩科学校所有の掛け軸、江奈の「江南〇」(覺の冠と黄)、宮内の寺「春城院」の扁額である。なお、海舟の「三余先生の碑」、三条実美の「岩科学校」、小泉純一郎の「鏝塚」の書がある。
伊那下の大額 山岡鉄舟の書
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山岡鉄舟は松崎に来ていた!?A
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江戸城外廓・御用石納めのことB
岩地・阿波屋 斎藤伊勢右衛門 (郷土に生きた八十年)より
江戸城御用石納めについて記述すると、徳川幕府中期以後末期に至るころである。
現に史実に残れる口伝および古文書によれば、江戸城吹上三角矢来外廓土台石のヒズミ生じたるにより、これが築き直しのため、諸石切り出し方を伊豆代官・江川太郎左衛門に命ぜられ、その筋より筆者の祖・斎藤七右衛門に御用石の切り出し御用を仰せつけられたのであった。
現存する文書によれば、高橋文左衛門家と共同事業であったようである。その石山は雲見の木ヶ下であって、またこれに使役した石工は雲見の多数の人であった。しかうして切り出された御用石の搬出が大変なことであったと思われる。
この切り出しおよび運搬の確保のために、幕府より「御本丸御用」の紺地に白抜き染めの幟(のぼり)を交付されていたのであって、いかなる運搬といえども、江戸に運搬の命を受ければこれに背くことは出来なかったのであって、この件については割合に順調に進行したと思われる。
しこうして盆・正月には、毎年雲見の石工の勘定のことが大変であったらしい。この帳面の多数は高橋亘氏住宅新築のとき、襖製作などに必要とのことで寄贈したので、現在は帳簿類はないが、古文書は現存している。また当時の御用石納めの残石が筆者の家の前庭に一本現存している。なお、この御用意しについては御本丸よりほか、深川・越中島御調練場の外廓築直し御用石にもあわせて納入したのであった。
その後、木ヶ下の浜には当時石材を切り取った破片が大なる層をなしていたが、昭和初期より中期にかけて、山口に菊池與吉氏による京浜地区・川崎市の埋立工事の用石として、実の大量の搬出が行われて現在はその昔の片鱗さえ見ることが出来ないのである。
この事に関連して、まだセメントが世に出なかった時代は、工事の基礎はたいがい石材を使用したので、したがって京浜地区にもその需要大であったので、雲見の赤井の桜山を開発して、大量の石を切り出し、京浜地区に搬出して相応の収入を得たのであった。しかるが故にその当時、雲見の大部分の男子は石の切り出し工であったのである。
「江戸城・築城石」 跡の海岸
「松崎の歴史」=『清水町と松崎町A=長八作品か?』(提供:松崎町松本様より)
駿東郡清水町史「宝池寺」の項に「弘法像由来記」なる一文がある。寺内・薬師堂にある「弘法大師座像」は、伊豆の長八作品だという。
私は、さほど長八を知るものではないが、「もし本物ならば大発見!!」と思った。しかし、車もなく出不精な私にはそれを探す時間もなかった。
読み進んでいくと不幸な物語である。幕末「久保田せきという娘があり、両親に早く死別したことから、世をはかなみ、仏を頼りに暮らしていた。やがて18歳になり、先祖の菩提を弔いたいと発願、京都に向かう途中、由比の寺に入って修業中、今度は裏山の地滑りに遭って寺は崩壊、九死に一生を得て伊豆・岩科村山口の普音寺に逃れて入山したという。
そこで幾年か仏に仕えていると、伏見・久保田家の近縁が風の便りに普音寺に、せきらしき尼がいると聞く。そこで行商の知人に確かめさせ、彼女の身元が判明する。しかし生家は養子が継いでおり、彼女が帰ることはかなわなかった。
やがて本家に敬次郎が産まれたことから、せきの縁で山口の栗田家を継ぐことになった。彼は敬神祟祖の念が厚く、誠実な上に努力を重ねたので「菓子商」として財をなす。
この近隣・松崎町は、鏝絵名人・入江長八の郷里である。そこで生まれ故郷の思い忘れがたく、生家の菩提寺である宝池寺へ長八作の弘法大師像を求め、寄贈を思いたつ。
ころは大正の初め、敬次郎は大師像を抱き、船で沼津港に着いた。港には宝池寺の信徒が多数出迎えたと」いう。
はたしてこれが長八作品か?、明治22年に長八は亡くなっているので、私の疑念は深かく、1年以上も暖めていたのだった。
そんな折、ピア101の菅井誠二さんの母が栗田姓であったことを思い出した。そして本文をコピーして差し上げると、数日もすると写真を撮って持参してくれた。しかも座像下部の文字までも撮されている。「明治29年、…佐藤甚三作」とあり、長八作品でないことが判明した。がっかりしたこと、すっきりしたことが入り混じる複雑な心境である。なお、甚三は長八の弟子である。